よし、できた。
ついにかけた。人間観察のレポート。感激のあまりアップする。
なんと4689字。
あんだけ文句たれてた最低字数より、1000字も多い。
人間観察をしてみよう 中間レポート いいじまはみめ
第一章 コミュニケーションにおける、言語的要因と非言語的要因の影響力
今回のレポートでは、コミュニケーションと信頼との関係について考えてみたい。まず、私たちが初対面の人と出会ったときを考えてみる。自己紹介の場面を想像してみよう。私たちは、相手の話している内容よりも、むしろ相手の姿勢、声の印象、表情などといった非言語メッセージに注意を払い、そして、第一印象というものを作り上げているのではないだろうか。
私たちは、信頼を前提にコミュニケーションを開始する。信頼の置けない相手、避けている相手とは好んでコミュニケーションを開始しようとは思わない。自己紹介の場面においても、その段階で定められた好感度や、信頼度が低い相手とはその後のコミュニケーションを避けようと思う。
これは、非言語メッセージが私たちに与える影響力が大きいことを示している。ではどうして非言語的要因が与える影響力は大きいのだろうか。
私は、非言語的部分には、その人の人間性というものが映し出されるからであると思う。言語というものを私たちは、学校教育の国語というものを通じて習う。それ以外でも日常生活で意識的に学習する。このため同等の知識を持った二人が書いた文であれば、大差のないメッセージを伝達できる。これに対し、非言語メッセージは、無意識に習得したものであり、誰かから学んで身に着けたものではない。この部分に人間同士の差異、個性が生まれる。私たちは、無意識のうちに、非言語メッセージの中に話の相手の人間性を見、その影響を受け止めているのだろう。
嘘というものについて考えてみよう。私たちが、相手に疑いを抱く時、ほとんどの場合は、非言語メッセージによる思う。相手の動揺した態度、汗、ふるえなどから私たちは相手が嘘をついているのではないかと考える。ある調査によれば、訓練された人間は、複数の非言語情報を利用することで、75%~85%程度の嘘を判別できるそうだ。また、よく、女性は男性よりも嘘を見抜くのがうまいと言われる。これは、視覚から入ってくる情報の観察力が男性より高いためであるという。
このように、我々の相手への信頼の大部分を形成するのは非言語的要因であり、また、相手に懐疑の念を抱かせるものも非言語的要因によるのではないかと考えた。
章の最後になるが、我々人間にとってどうしてコミュニケーション能力が必要なのかを考えてみた。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがある。このことわざのように、個人の能力が非常に強大で、一人で何もかも考え出せる、想像できる場合でない限り、普通の人が、よりよい知恵を出すためには、他の人と力を合わせなければならない。そのときに必要なのがコミュニケーション能力であると私は思う。人間は社会的動物であるとも言われる。誰かとのかかわりの中で、協力し合って生きていかなければならない。そう考えると、コミュニケーション能力は一般の人間が、よい結果を導きながら生きていくために不可欠なものと言えるだろう。
第二章 ほ乳類の中でのヒトの独自性 -生理的早産説
ヒトの独自性には、言語を使った複雑なコミュニケーションができること、火を使えることなどが考えられるが、今回のレポートではポルトマンの唱えた生理的早産説について考えてみたい。
人間はどうして生理的早産であるのかを調べてみた。
一つ目の生理的早産の原因としては、発達した脳が挙げられる。他のほ乳類と比較しても、人類の脳はきわめて発達している。ヒトは他の動物のように様々なことを会得した状態では、頭が大きくなりすぎて母親の胎内から出てくることができない。ヒトにとって大切な脳は大きいほうがよいが、母体から出られないのでは、元も子もない。
また、人類独自の特徴に、直立二足歩行がある。人類ときわめて近い存在として知られているチンパンジーやオランウータンでさえも、前足を全く突かずにうまく歩行することはできない。二足歩行によって赤ちゃんの通り道である骨盤が狭くなり、胎児の通れる大きさの限界ができてしまった、ということが原因のひとつに挙げられるという。
ヒトは外界にでてからの様々な環境に対応できるようにならなくてはならない。それらの事柄を理解し対応するために、生まれてからの学習が必要となってくる。よって、敢えて出来上がった存在ではなく、様々な状況に柔軟に適応することができる性質や才能を秘めた存在として生まれ、胎内から出た後で、十分な大きさに大脳を発達させるという説もある。
第三章 チンパンジー(霊長類)においてのコミュニケーション方法
先生が授業中に「チンパンジーは言葉を話せるようになるだろうか」とおっしゃっていた。今回のレポートでは、チンパンジーに限らず、類人猿全体として、彼らの発する音声について調べた。私は、今回授業で鑑賞したビデオや、以前見た動物のドキュメンタリー番組を通じて、ゴリラや猿、チンパンジーなどといった類人猿は様々な鳴き声を持っていることを知った。確かに、犬などの一般的なほ乳類も、遠吠え・相手を威嚇するためにうなる・吠える、鼻を鳴らすなどいくつかの音を出すが、映像の中の類人猿はより明確に、意味を持った音声を、条件に応じて発しているように思えた。
生命誌研究館(http://www.brh.co.jp/)によれば、サルは、恐怖にひきつった「キー」悲鳴や、怒りにまかせた「ガガガ」という吠え声などの、犬の鳴き声と同様の強いメッセージ性をもつものとは別に、日常の何気ない場面で「クウ」とか「グ」、「ボボボ」と軽く声をかけ合うことがあるようだ。それはヒトの愛情表現にも似た、仲間に対する親愛感を醸し出すものだそうだ。
また、ゴリラでは、おとなのオスがメスには見られない多彩な音声レパートリーを使って、グループをまとめている。低い声で「ゴ」と音声を発することで、仲間に注意をし、恐怖におびえる子供たちには「グルルルル」と慰めの意味を持つ音声を発する。それに対し、メスは「グウ」と従う意味を持つであろう声を出すそうだ。
確かに、類人猿は人間のような巧みな言語は持っていない。しかし、仲間内だけで通じる言語を持っていることは確かだ。それを人間が使っている「言葉」と同等のものと考えてよいかはわからないが、彼らは人間と同じように音声を使ってコミュニケーションをとっており、その点では既にある一定の言語を用いる動物としても考えられる。
また、ビデオ内であるチンパンジーが別のチンパンジーの毛づくろいをするというシーンがあった。あのスキンシップも親しみや愛情をこめた立派なコミュニケーションの一環と言える。
第四章 アイ・アユムのコミュニケーション能力
アイの子育ての映像を見てもっとも印象深かったのは、赤ちゃんの模型を抱く練習ではでは、あまりうまく抱くことができなかったアイが、出産後、誰から教えられることもなく、自らアユムを胸に抱いたシーンである。アイの母親としての本能というものに感心せざるを得なかった。また、生まれた直後、危険な状態にあったアユムの呼吸器に詰まってしまったものを吸い出し、呼吸を促す様子に関しても同じ事が言える。アイには、あらかじめ子育ての能力というものがインプットされており、それが実際にその場面に直面することによって、開花したのではないだろうか。
この本能は、アイのアユムを思う愛情からきているはずだ。自分の子を大切に思っているからこそ、イライラして八つ当たりをするときも、直接の原因であるアユムにはその矛先を向けなかったのだろう。
またここは、第一章と関わってくることであるが、生まれてから歳月を経るうちに、アユムの表情は非常に豊かなものになっていった。アユムが微笑むとアイもそれに答えるような表情をしたり、また、アイが唇を突き出すような表情をするとアユムもそれを真似するような様子が伺えた。彼ら親子は表情という非言語メッセージを用いてコミュニケーションを図っていた。
次に、チンパンジーと人間の類似点について考えてみたい。
まずは、学習行動についてだ。アイがアユムにものを教える際、ひたすら自分の行動を見せ続けていた。親の動作を模倣することによって、学ぶというのが、チンパンジーの特徴のようだ。石を使って木の実を割る野生のチンパンジーの映像でも、同様に、子どもが親を真似することによって成長していく様子が見られた。これは人間でも同じことが言える。人間は言葉というものを持つため、それを用いて教えることが多いが、真似をすることで学習することも非常に多い。
また、一般的なほ乳類では、親が次の子どもを生むために、子どもを捨てると言うことが一般的にある。母親と一緒にいたがっている子を、自分の縄張りから追い出すことによって、親離れ、子離れが成立する。これに対し、チンパンジーの場合では、このように親離れ・子離れをすることはなさそうであった。人でもこのようなケースはない。この点では、チンパンジーも他のほ乳類と対比した場合、一歩人間に近い存在と言える。ビデオの中のアユムも、徐々に他のチンパンジーと接することで、親であるアイのそばにくっついて歩くのをやめ、他のチンパンジーと遊ぶという光景が見られた。これは家という生活環境から学校という外の世界に出て行くことによって、さまざまな相手を知るなかで、親離れ子離れが成立する人間と非常によく似ている。
第五章 その他 一人称としての「自分」
授業中に取り上げられた内容で興味を持った内容としては、「自分」という一人称を遣う人が増えているというものであった。高校時代に、一人称を用いることが嫌いで、うまく使うことができないという友達がいた。その彼が使っていたのが「自分」という一人称であった。「自分」という一人称は中性的で上下関係を消すために好まれるということであった。その他の一人称について、インターネットやまた身近な友達の意見などを聞いてみた。
「僕」・・・子供っぽい。未成年男子が使う。自分を下におく。甘えている印象を与える。
「俺」・・・気軽な仲間同士では使える。目上の人に使うと失礼な印象を与える。
「私」・・・公の場で用いる。男性が使う場合、女性的な印象を与える。堅苦しい。
その他にも、「わし」「あたし」「あたい」「おいら」「自分の名前」などがある。
ここでは、日本人の上下関係というものが非常に強くかかわってくる。日本人は、敬語というものに代表されるように「上と見るか、下と見るか」という判断を非常に大切にする。そのため、多くの一人称が存在する。相手が目上か目下か、また状況に応じても、日本語の言葉遣いを変える必要があり、その過程で英語における一人称Iに当たる言葉もいくつかの中から選ばなくてはならない。一人称を使い分けることで、話の相手との立場関係を明確にできるが、使い方を間違えると相手に不快感を与えたり、失礼にあたる場合があるので、注意すべきである。
「自分」という一人称は、体育会系の男子、または逆に内向的でおとなしい男性が使うことが多いようだ。そして、軍隊的な印象を与えると言うもの特徴のひとつである。また、関西では話し相手のことを、二人称の「自分」として用いられることがあるため、混同されることもある。更に、未だ一般的な一人称として認識されてない一面もあるため、使い勝手があまりよくない点もある。そのため「自分」という一人称を用いるときは注意が必要である。いずれにせよ、時と場面に応じた言葉遣いが求められている。
こんな感じだ。
読んでくれた方、いたら挙手してください。
暇人の称号を挙げます。
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